川舟100隻で川がよみがえる、ハズ! (NPO新潟水辺の会世話人 相楽治)
相楽・今出川・治です
 こんにちは、新潟水辺の会の世話人、相楽治です。アイラクでなくサガラといいます。相楽がよく相良と間違われます。『相手と楽しくやる男』と思ってくれると嬉しいです。うぶ湯を、福島県の中央を流れる阿武隈川の支流今出川(石川町)でつかり、いまは長野県からいくつもの都市を流れて日本海の河口に至る信濃川の最下流の(濃い)水を飲んで暮らしています。とい言うわけで、ミドルネームの川名を入れて相楽・今出川・治と名乗りましょう。
おいしい水辺の時代
昔はどこの川でも空気のように水を飲み、泳ぎ、魚を捕り、舟遊びができました。私も、父の仕事が変電所勤務だったので郊外に住むことが多く、川でカジカやハヤ、コイ、フナ、ドジョウを捕り夏の夜にはホタルを狩り、ランプを片手にナマズ刺しまでしました。魚はその淡白な味を覚えています。しかし、阿武隈川中流の町に引っ越したときに川で汚いものを見たことがきっかけで、新潟市で大学ボート部に入るまで近づかなくなりました。
クラブでは信濃川下流を川岸の様子(可愛い子イナイカナ)を見ながら練習しました。当然、華のエイトで、ですけど。新潟では晴れていても上流の大雨による洪水で流れてくるものが多く、ボートの桟橋にたまった漂流物の上に載っても沈まないくらいでした。あるときは水位が上がり越流する川水を合宿所前で止めるために土嚢を積んだこともありました。
卒業後、西に向かい神戸市で六甲から転がり落ちるように流れる川のそばで一時滞在し、さらに西の山口県豊浦町の牧場で2年ほど暮らしました。そこでは大水に牛が流されるほどの洪水力の凄さを目の当たりにし、後で役立つことになる土嚢積みも体験しました。
西新潟を流れる天井川・西川

新潟に戻った後、仕事場近くで天井川の西川が破提したので、牧場での経験が生きることになりました。その時の破提したようすは地元の古老も初めてというほど激流が猛烈に堤防を削り取っていき、住民は土嚢などを流れに投げ込み傷口は10m、11mと広がるばかりでした。土木事務所の指揮者も対応を決めかねていました。私は見ていられなくなり、「川の中央部に向かって土嚢をアーチ型(月の輪工法?とかいうらしい)に積まなければ洪水は止まらないし、堤防の傷は広がるばかりです。」と説き回り、私も川の中央に向かって土嚢積を手伝いました。結果2時間後に止水できました。表彰状も金一封も出ませんでしたけど、私のアイディアで止まったことに満足し感動的な一日でした。
水辺に魅せられて、楽しんで
川は、そのままでその町や地域の顔であり、そこで過ごした子供たちの記憶に残る財産でした。それが無くなるなんて許せないと怒る1人の柳川市の職員、広松伝さんの呟きで映画「柳川堀割物語」は始まりました。'87年10月、私たちはその上映会とシンポジウムを開催し、それをキッカケに新潟の水辺を考える会が生れました。広松さんから「水は生きもの」「暮しの中で水と付き合う」など様々なことを教えていただきました。(広松伝さんに合掌)
 私たちは、川や潟など水辺を市民の目線で見て感じ、学び、楽しむ活動から始めました。新潟県内の水辺を主なフィールドに、ウォッチング、カヌーでの川下り、川を考える学習会、川辺でのミニコンサートや宴会、川魚を味わう活動、潟でのハス採りと野人食大会など水辺の様々な活動をしてきました。結果、市民が考え、かかわり、住み、遊び、活かす水辺の大事なことを学んできました。これも当会の代表大熊孝新潟大学教授が、川にかかわる既存の価値観=川の常識を先入観として押し付けることなく、市民の自由な川への想いを大切にし、時に応じて歴史的世界的な視野で見るキーワードを提示してくれたからと言えます。
よこはまかわを考える会などを兄貴分に見て活動をひろげ東京から山道さんや森さん、大沢さんを招き、’89年ヨーロッパの近自然河川工法視察とC.W.ニコル氏を招いたシンポジウム、’91年日本海1000kmカヌー横断航海プロジェクト支援、’92年第8回水郷水都全国大会新潟大会、’93年第6回自然復元全国研究会などを楽しみながら開催してきました。
活動も楽しくと多彩な活動をしていますが国内外の水辺ツアーも定番になりつつあります。’98年中国り江船下りツアー、’99年タイチャオプラヤ川船下りツアー、川の日WSグランプリ副賞での’00年英蘭ゆったり駆け足運河ツアー、’01年九州石橋と柳川を訪ねるツアー。さて2002年はどこへ・・・
水辺で汗をかく、関わりの再生へ
当会が、海、農業、対岸の水辺を考える流れの中で具体的な川の環境改善に取り組み始めたのが、東新潟の全長約8kmのドブ川通船川と西新潟の砂丘湖佐潟です。
通船川ルネッサンス21(現通船川・栗ノ木川ルネッサンス)代表の星島さんの「商店街を活かすために川を再生したい」という想いにふれ、水辺で汗をかく会への脱皮が始まったわけです。水辺再生への活動は、多くの賛同者を引き出しました。人財ネットワーク力のある公民館と連携した「通船川環境講座」と新聞2紙の通船川活動コラム連載と広がり、結果新たな会員参加を得ました。
98年には新河川法の追い風もあって住民・市民と河川管理者の新潟県土木、新潟市の三者による「つうくり市民会議」(通船川・栗ノ木川下流再生市民会議)が発足しました。企画から河川整備、河川管理までパートナーシップで考え、活動する日本で初めて(県の課長談話)の組織の発足でした。その後の、通船川川づくり方針づくり、河口環境改善ワークショップ(以下WSと略)、中流部松崎まちの川WS、東山の下小学校の森づくりと一体化した緑の川づくりWSに発展しました。
当会の通船川ネットワーク支援活動は、川掃除だけでなく川沿いの農業・木材業・筏引き船業・商店・市民の連携する「チューリップ花絵筏づくり」や水辺にある東山の下小学校での全国ワークショップ交流会通船川分科会開催(「約10mの通船川夢マップ」はこのときの成果)へも発展し、学校へのネットワークも広がっています。
一方、96年にラムサール条約登録湿地になった佐潟の保全・賢明な利用をテーマに「ラムサール全国大会イン新潟」を開催。江戸時代からあった地域と潟とのつながりが薄れ、自然が衰退していた佐潟をもう一度地域住民や市民とのかかわりを復元しようと佐潟懇話会を立ち上げました。潟に入って潟を感じる第1回のハス採り大会が、漁協の高橋さんの指導で始まり、CWニコル氏も参加しました。野草てんぷらの野人食には幻の料理人(?)星島さんが活躍したのは言うまでもありませんけど。
『地域の川の時代』へ
 活動を個人の想いや汗をかく会から責任を持続的に担える会へと進化するため、非営利活動法人新潟水辺の会として申請し3月に登録しました。NPO法人にする意味を勉強会から始まり時間をかけて議論しましたが、今のままでいいのになぜNPO法人にするのかという意見もありました。外へは社会的責任への表明であり、内へは活動の継続性をフロー型からストック型、つまり運動をより広範に広めながら活動体から事業体への進化を図ること、そして若い人材へのバトンタッチするためにNPO法人にしました。
私たち市民側の取り組まなければならない「美しい川」への命題は大きく、課題は多い。それには川の使い手や住み手である市民が川のつくり手、守り手と連携や一体化が必然です。一旦断絶した川と市民との関係の再生には多くの熱意の伝播が不可欠です。でも一過性の熱意では達成は無理と思っています。かつてのように自分たちの身近な環境の改善には自ら取り組み、育て、守り、手直すという使い手、作り手、守り手が一体化した『地域の川の時代』が期待されます。それを現代的に再創造することが最善です。そこからしかいい川と川のあるまちの融合した「美しい川」の姿は見えてこないと思っています。
目標は美しい水辺の再生
会の目標は簡潔にいうと「美しい水辺の再生」です。見た目の美しさというだけでなく、そこに舟が走り、それを眺める人が水辺にいるようなやすらげる川、街と一体になった、内面的な魅力もある美しい川です。安全への配慮は当然として、そんな川にはそこに入れ替わり多様な人々が滞在し、かかわっているはずです。そこには川のうまい使い方を生み出す“技”と川を活かす“川仕事師”と川を美しく子孫につなぐ“作法・仕組み”があった筈です。
その意味で『美しい水辺』の実現には、根気強い活動とステップアップする手法が問題です。人々の眼を川に長い時間ひきつける条件づくり、川をくらしの中に取り込む、或いは川のあるくらしを可能にする条件づくりが必要です。その長い時間川に触れる最適な手法の1つが川舟です。
通船川まちの川WSで川舟を漕げる住民のたくさんいることが分かりました。60歳代以上の高齢者たちでしかも健在です。川を走る舟が川を劇場にし、人々の目を引き付ける。そこから初めて美しい川の実現への一歩が始まると思いこんでいます。
水辺への持続的で濃密なかかわり『川業』が大切
その意味では、遅れてきたはず(と言っては失礼だよね、森山さん。モントレーと姉妹都市なんて先進都市だよ)の七尾市の株式会社御祓川は、みそぎ川というステキな名前もさることながら全国の川の再生運動を一気に抜き去る濃密な活動、「川業」として注目できます。というのも、現実に川を活かす川仕事は、行政の河川事業や筏運搬や水上バス舟運のように日々川とのかかわりにあります。連続してかかわる時間の長さ、濃さにあります。そう考えると、そこに住んでいる人や釣り師以上に川とのかかわりを持っているはずの私たちでも、日常的に川を意識しつつ仕事をしている人にはかないません。
その意味で、株式会社御祓川はすごいと思います。ほとんど空いた時間でしか川とかかわれない市民運動とちがい株式会社の業務速度で川とかかわっている。川辺で、川を見ながら、川とまちの再生を仕事にする人や店、グループ、住民を育てている。営利事業と非営利事業を一体的にするという新しい業態、新しい職業を実践的に実現している。うーん凄いですね。

※ 90年に湘南で漁業を超えた海業が、呼応して山では林業が森業が始まった。10年遅れで『川業』を提唱している。住民も企業も行政も学校も、営利、非営利にかかわらずともに認め合い連携しながら川の再生に貢献していく、そんな事業の総称が『川業』です。そこには新たな川の持続的な使い方、活かし方をさぐる新しい事業と職業が生まれることが期待されます。
マイカーならぬマイシップの川世界
 40数回にも及ぶ通船川再生の議論や活動の中で、川沿いの住民のポロッと口にした川舟『板合わせ』が共通な話題になりました。「板合わせ」はかつて川沿いのほとんどの人が持っていたといいます。海面より低いところに住んでいる人たちの知恵でしょうか。避難、運搬、買い物、移動、遊びなどに使われていたのでしょうか。上流に住むOさんは雪で道路が不通になったときにお腹の大きな奥さんを舟で病院に運んだこともあるといいます。
まちと川とのかかわりの時間の長さがキーなら、それをつなぐ川舟を再現すべきだねという話になり、川舟の建造熱にもえている中川造船所に「板合わせ」の製作注文をしました。長さ8m、幅80cm程度の大きさで櫂付きです。資金は「あさひ水と緑の会」の助成金を元手にしながら1口千円で基金を募っています。
この舟を通船川河口周辺にいつでも使える展示品として丘置する予定です。誰もが漕げるという60代以上の方々に老船頭師の登録していただき、子どもたちに操船とかつての魅力的な川を伝えてもらいたいと思っています。また、その操船のお礼は構想段階だけどエコマネーにしてはと考えている。川舟操船も通船川にあるたくさんの川業の1つとして認め合い、つなぎあいみんなの大事な仕事にしたい。かつてのようなマイシップは無理としても、各企業、各自治会、各商店、農業団体、学校、大学、公共施設に1隻づつ持ってもらい、全体で100隻程度の舟を川全体で使いあう、そんな川世界が夢です。
その仕組みとそれを通した川の新しい使い方、活かし方ができないだろうかと思っています。
その夢の下流に、かつて通船川を走っていた外輪船を、ロンドンの運河で走っていた水上バス・ナローボート(狭い舟の意味。高さ2m幅2m長さ約15m)のように再現してみたいものです。そのためにも、100隻の川舟で川をよみがえらせたい。よみがえるハズです。

他己紹介:菊池静香さん
若い美人のコラムシリーズを長老が停滞させたしたようです。再度若い美人のコラムシリーズに戻しましょう。NPO水環境北海道の事務局長、菊池さんは当新潟水辺の会の会員でもあり、北海道の男くさい川を女性や子どもの近づきやすい川にしようとがんばっています。学生時代から川に取り組んでいる「川姫」です。


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